2005年公開の『ファンタスティック・フォー 超能力ユニット』から始まったファンタスティック・フォーの映画化は決して快調とは言えない歴史があります。
1990年代前半に「お蔵入り」となった低予算版を皮切りに、2005年にはヨアン・グリフィズ版が公開。
2007年には続編も公開された。
しかしどちらも批評家、観客共によくない評価となった。
続く2015年リブートはリアリズムを志向したが評価は良くなく、結果的に度々トレンドになるネットミーム(「Say that again?」)とパンツを履いていないザ・シングのインパクトだけを残して消えた。
そして2025年。
これまで20世紀FOXが映画化の権利を持っていた同シリーズがディズニーの買収によってMCU入りして初めての映画『ファンタスティック4 : ファースト・ステップ』が本作となったわけです。
今回はそんな本作のネタバレ感想をお届けします。
MCU以前のファンタスティック・フォー
今回の『ファーストステップ』を語るには、まず2005年版(ヨアン・グリフィズ主演)と2015年版のリブートを踏まえておく。
前者はMCU以前の「典型的ハリウッド・ヒーロー映画」の陽気さ、後者はリアリズム指向で暗色を強めた若者のSFの実験色が強かった。
これは監督を務めたジョシュ・トランクの代表作『クロニクル』を彷彿とさせるものだった。
そして2025年版の本作は、その両極を眺めたうえで〈ヒーロー:家族 = 1:3〉の比率に振り切った第三のアプローチを提示する。
冒頭、テレビ特番として挿入される「活動4周年記念ドキュメンタリー」が象徴的だ。
観客はわずか数十秒で「四人はすでに世界の顔馴染みで、数々の危機を乗り越えてきた」という前提を受け取り、長いオリジン回想は不要となる。
リブート作品が抱えがちな成り立ちやり直し疲れを、MCUはここで巧みに回避した。
これは直近公開されたDCU映画1作目『スーパーマン』やMCUでは『スパイダーマン:ホームカミング』など、再三リブートを繰り返してきた作品だからこそ、導入はすでに観客がある程度わかっている前提で進ませる決断だ。
これにより、またオリジンから進むという縛りからも解放され、より自由な作品にすることが出来る。
しかし、もちろんこれは観客の前提知識が一定程度あることに頼るものではあるため、全く新しい作品では難しいだろう。
そこを少しでも解消しようと冒頭にファンタスティック・フォーとは何者なのかという問いに対するアンサーともいえる紹介番組を挿入するのはとても面白いアプローチだ。
キャスティングの刷新も大きい。
リード・リチャーズを演じるのはペドロ・パスカル。
科学者としての自信と、父親になる不安を同時に滲ませる演技は圧巻で、研究室で数式を並べる手つきより、言葉に詰まる一瞬の沈黙が彼の人間味を雄弁に物語る。
インビジブル・ウーマンを演じるのはヴァネッサ・カービー。
臨月の身体を抱えながらも、家族の精神的支柱として振る舞う姿がたくましい。
ジョニー・ストーム(ジョセフ・クイン)の無鉄砲さと同時に併せ持つ人間性、ベン・グリム(エヴォン・モス=バクラック)の包容力も合わさり、彼らの家族としての一面がより強固になる。
四人の関係は仲間より生活共同体だ。
作中でシルバーサーファーが来る場面で隕石が上空に現れた際は、リードの一言でジョニーが炎をまとう。
そんな息の合った一瞬が、彼らが日常から連携を磨いてきた証しである。
バリアを展開したスーがジョニーの火力を増幅し、ジョニーとベンの空中技の連携なども、戦闘シーンの短さを補って余りある信頼の動線として効いている。
アクションよりドラマに偏った構成ゆえ、能力描写は必要最小限だ。
特にリードは、遠くの物を取る程度で伸縮能力を使う場面がほとんどない。
ここは「頭脳こそ最大の武器」という設定を強調した結果だが、ゴム腕で大立ち回りする姿をもう少し見たかったという物足りなさも残る。
一番の能力の見せ所はギャラクタスに引っ張られるところだろうとも思ってしまう。
それくらいあの場面が印象的であるのと同時に、特に2005年版に見られた伸縮自在なリードの能力を見られなかったのは少し残念だ。
余談だが、あの場面は『ドクターストレンジ:マルチバース・オブ・マッドネス』を鑑賞していると底知れぬ不安が襲ってくるのも面白い。
本作の強みは、家族の空気感をMCU内で最も濃密に描いた点にある。
ヒーローとしての顔と、リビングでの素顔が地続きであること。
それを裏付ける具体的な描写が積み重ねられるほど、観客は彼らの関係に自然に納得していく。
ヒーロー映画の王道から一歩横にずれ、家族映画にヒーロー要素を付け加えた。
それが本作の最大の特徴であり、旧作との決定的な違いである。
つながり
『ファーストステップ』は、四人がチームである前に家族であることを徹底して描く。
リードとスーは夫婦、ジョニーは義弟、ベンは親友。
血縁・婚姻・友情が重なった家族が、日常のテンポそのままに危機へ向き合う姿が基調だ。
妊娠がわかった場面では、真っ先に喜んだのがジョニーとベン。
これから子を持つ夫婦よりも笑みがこぼれる。
家族が増えることを自分事として歓迎している、という雰囲気が伝わってくる。
一方リードは、父親になる期待と、自分たちの変異が子どもへ遺伝しないかという科学者らしい不安が交錯し、ほんの微妙な表情がそれをにじませる。
市民との繋がりもほほえましいところがある。
街を守るヒーローとしてテレビでの特集が組まれるほどの人気だが、街でクッキーを買ったり子供たちの呼びかけにも真摯に対応するシングの姿は親しみを感じる。
ファンタスティック4のメンバーは街では皆、ヒーロー名ではなく名前で呼ぶところも市民との近さを感じさせてくれる。
やがてギャラクタス側から「フランクリンを差し出せば地球は無事に済む」という条件が示されると、市民のあいだに動揺が走る。
作中では街で直接そう訴える声が聞こえる程度の描写だが、それでもヒーローが守ってくれるという信頼が揺らいだことは観客にも分かる。
緊張を決定的に変えたのが、フランクリン誕生後にバクスター・ビル前へ集まった市民の前へスーが出て行く場面だ。
誕生間もない息子を抱えたまま真正面に立ち、静かに語りかける。
「フランクリンを犠牲にして地球を救うことも、地球を犠牲にしてフランクリンを守ることも、私たちは選びません。」
涙声でも絶叫でもなく、決意を芯に通した穏やかな口調。
群衆は一瞬ざわめいたあと、拍手と安堵の溜息が混ざったような音に変わる。
ここで〈家族〉と〈市民〉の距離が再び縮まり、四人と街が同じ方向を向いたことが示される。
終盤、ギャラクタスを遠ざける作戦では、四人が役割を分担しながらも互いの動きを熟知している様子が強調される。
親密な連携は家族が培った生活リズムそのものだ。
アクションの量は決して多くないが、息を合わせることの重さが視覚で腑に落ちる。
結果として、市民はファンタスティック・フォーを隣に暮らすヒーローチームとして再認識する。
ラスト、本作では徹底して家族、そして市民とファンタスティック・フォー、そして世界のつながりを描いていた。
街を守るヒーローチームでありながら、テレビへの出演や路上でクッキーを買うなど、日常に溶け込む、ヒーローというより街の有名人としての側面がより一層この作品での個々のつながりを意識させた。
レトロフューチャーとジアッチーノ
本作を包む最大の味は、1960年代の空気と近未来テクノロジーが無理なく同居している世界観だ。
舞台となるのは別アース。
舗装のひび割れ方や市民の服装や髪型、店先の看板フォント、ベンがクッキーを買う場末の路地まで、60年代ドキュメンタリーで見かける質感を忠実に残しながら、頭上を浮遊自動車がゆっくり通過するなど、懐かしさと未来を同時に嗅ぎ取れる。
このビジュアルをさらに跳ねさせるのが、マイケル・ジアッチーノの音楽である。
ジアッチーノといえばMCUでも『スパイダーマン:ホームカミング』や『ドクターストレンジ』のテーマ曲を作曲し、ロバート・パティンソン主演の『ザ・バットマン』の音楽も担当している。
もちろんヒーロー映画以外も多くを担当しているが、どの音楽も印象に残る素晴らしいものを作り上げている。
今回はまるでパレードのような曲調で要所要所にコーラスが陽気な掛け声を入れてくる。
聴覚までもレトロフューチャー仕様に再構成する手際はさすがだ。
劇中でテーマ曲が流れるタイミングも多々あり、少しこのテーマ曲に頼りすぎな印象を感じたくらいだ。
ただ、結局のこの曲が流れると無条件にテンションが上がり、映像も楽しげに見えてしまうのはパブロフの観客といったところか。
美術面で好感を持ったのは「現実を過剰に美化しない」抑制だ。
少し粗が残る舗装の路地に、過去を感じさせる髪型に服装、建物のデザインまでも60年代をただピカピカに磨き直すのではなく、「そのまま時間が積もった」経年込みで提示するので、観客は違和感より生活臭を真っ先に感じる。
映像と音が噛み合った最高潮は、終盤の出動シークエンスだ。
アラートがアナログ風の時計型デバイスに表示されると4人のデバイスを付けた手首が1つの画面に映し出される。
そして舞台裏からファンタスティック・カーに向かって走る姿は神格化しない等身大のヒーロー姿を映し出す。
外でチャイルドシートを付けるために奮闘するリード、ベン、ジョニーの3人とそれをフランクリンと見守るスー、この構図こそ、彼らが家族であるということを幸せなまでに体感させてくれた。
総じて、本作のレトロフューチャー演出は「古めかしさを舞台装置にせず、生活感として埋め込む」点で成功している。
そこへジアッキーノの遊び心あふれるスコアが重なり、スクリーンにはありえたかもしれない60年代という立体的幻影が立ち上がる。
派手なCGや爆発より、色味と音色で胸を高鳴らせる。
そんな体験これまでのMCU作品とは一味違い、新鮮さと楽しさ、温かさを感じた。
ギャラクタスの脅威 & クライマックス評価
ここまでよかったところを語ってきたが、今作で最大の肩透かしだったのが、ギャラクタスとの対決だ。
地球そのものを捕食する存在が敵として据えられながら、作品は正面からの殴り合いを選ばず、フランクリン奪取の阻止を中心に据える。
結果、観客が目にするのはCGの大決戦ではなく、ギャラクタスの歩みと止めようと頑張るチームの姿だ。
私は巨大ヴィランとの肉弾戦を期待していた部分もあり、戦闘シーンの少なさに物足りなさを感じた。チームの連携が光るシーンではあるものの、どうしてもギャラクタスという強大な敵に対しては歯が立たず、ある意味では人間と虫のような構図にも見えた。
ギャラクタスからしたらファンタスティック・フォーは進路の妨害にもならないようなちっぽけな存在だという認識だったのだろう。
だからこそ、特に対峙する姿勢を見せず、ただひたすらにフランクリンに向かう。
何とか阻止しようと頑張るリードたちだったが、ことごとくはねのけられ、リードに関してはまるでおもちゃのように遊ばれる。
映像面でもギャラクタス自体が巨大すぎるがゆえにどうしても敵と戦うというよりも巨大な建物やロボットを止めようとするように見えてしまった。
MCUではやはり同じサイズの戦いが迫力を生んでいた(アントマンでさえ、同じサイズの敵)のでここに関してはやはりギャラクタスであるが故の演出の難しさだったのだろう。
クライマックスは、スーのフォースフィールドでギャラクタスをワームホールへ押し返す作戦が軸だ。フランクリンを奪おうとするギャラクタスに対して母親の強さを見せた、容易だがそれでいて説得力のある展開だったと言えるだろう。
しかしスーの全力でもギャラクタスは抵抗を止めない。
そこでジョニーが身代わりになろうとツッコむがここでシルバーサーファー、後述するシャラ・バルが進み出て、自らでギャラクタスを押し込み追放した。
スーは一時的に命を落とすが、フランクリンが彼女を蘇生。
ギャラクタスの脅威描写については賛否が割れるはずだ。
姿そのものはコミックを尊重した人型シルエットで、巨大感は街との比較で示すだけに留まる。
ただ、やはり戦闘の密度に刺激を求める観客からすれば「もっと暴れてほしかった」と感じるのも事実だろう。
余談だが、ギャラクタスは文字通り「惑星を食べる」のだろうか?
2005年版『ファンタスティック・フォー』や例えばドラマ『ロキ』のアライオスのように煙のような姿であれば飲み込むことも想像できるが、ギャラクタスは人型だ。
地球に来た時も土のにおいを嗅ぐようなしぐさを見せていたが、これは昔の自分の世界を思い出していたのだろうか?
それとも食材の香りを確認していたのだろうか?
そこが少し気になった。
話を戻すと、終盤の情緒は確かな余韻を残す。
フランクリンが初めて能力を発動し、スーが蘇った直後、3人を包み込む安堵とフランクリンの笑い声。
家族ドラマに振り切った本作らしい締め方であり、戦闘の少なさと引き換えに守り切った温度を観客の胸に残すクライマックスだった。
シャラ・バル版シルバーサーファー
今回のシルバーサーファーは、原作でも存在するシャラ・バル。
性別変更は公開前に賛否を呼んだが、映画を観ればその意図は明確だ。
ジョニーという陽性全開キャラと絡むことになる対となる存在が物語上欲しかった。
結果として、二人の距離感はジョニーの人間性を引き出す起爆剤になっている。
劇中、シャラは多くを語らない。
彼女がヘラルドになった経緯も「母星を守るため、自ら進み出た」という説明があるだけで、詳細は描かれない。
だが無言でギャラクタスの命令に従う姿や、街で真実が判明したときに見せたわずかな視線の揺れが、彼女の過去を十分に想像させる。
シルバーサーファーと同じ画面に映ることの多いヒューマン・トーチは映像的にも、銀の肌と炎のオレンジがフレーム内で干渉する独特の光彩が生まれる。
特に二人が並走するシークエンスは、炎が照り返した銀面に微妙な虹色が走り、美しさを残す。
シルバーサーファーがジョニーを追い越し、自らを犠牲にギャラクタスをワームホールへ押し込むくだりは、台詞より動きで心情を伝える好例だ。
私はジョニーの犠牲も可能性としてあるのではないかと割と本気で覚悟していたので、シルバーサーファーが来たときはここでグッと胸をつかまれた。
ポストクレジットと今後
結局のところ、MCUといえばポストクレジットで話題をかっさらう手法がお家芸だろう。
これまでもポストクレジットではいろいろあった。
インフィニティー・サーガではサノスが姿をちょっとずつ現わしたり、1つ前に公開された『サンダーボルツ』ではそれこそ、本作を匂わせるポストクレジットシーンがあった。
私自身、本作で船に乗るシーンでは『サンダーボルツ』のポスクレが邪魔をしてそわそわするタイミングもあったのだが、結局のところあのポスクレの謎が本作で明かされることはなかった。
そんな本作のポスクレはスーがフランクリンに読み聞かせをしている場面から始まる。
フランクリンのために本を取りに行ってから帰るとそこには緑のマントを被った後ろ姿と、こちら側を向く鉄の仮面を手に持った謎の存在がフランクリンの前に座っていた。
と言ってもこれはもはや謎の存在ではなくドクター・ドゥームであることは周知の事実であり、それを演じるのがアイアンマンを演じたロバート・ダウニー・Jrだという大発表も数か月前にあり話題にもなった。
今回は顔こそ見せないまでも、やっと本命を出してきたかという感想が正直なところだ。
MCUはサーガで区切られており、インフィニティ・ストーンを巡る物語が【インフィニティ・サーガ】そして現在進行中のマルチバースを巡る物語が通称【マルチバース・サーガ】と呼ばれている。
本来はドラマ『ロキ』で初登場したカーンがサノスのようなメインヴィランになる予定だったのだが、演じるジョナサン・メジャースのスキャンダルにより途中で解雇されてしまった。
本来は『アベンジャーズ:カーン・ダイナスティ』として予定されていた2026年公開の映画は、『アベンジャーズ:ドゥームズデイ』に変更され、メインヴィランもRDJ演じるドクター・ドゥームとなったわけである。
スキャンダル後、長らくドゥーム不在のままフェーズを進めてきたが、やっとここでその姿を現した。
もっとも、本作ではポスクレ前にも作中でラトヴェリア(ドクター・ドゥームの統治する国)が名前だけ登場していた。
気になるのは、今作の舞台がアース616ではない点だ。
アース616といえばMCUのメインであり、これまでほとんどの作品はこのアースを舞台にしていた。
このままドゥームを主軸に据えるなら、MCU本流との橋渡しが必要になる。
作中でフランクリンが見せた母を蘇生するほどの現実改変能力、あるいはシルバーサーファーとギャラクタスがワームホールが関係するか、ドゥームの能力か、リードの実験か、はたまた別の理由か。
さらに原作通りなら、スーとリードにはドゥームの家族がらみのエピソードも控えている。
家族ドラマを継続するという点でも、ドゥーム投入は必然だ。
結局答えが明かされるのは2026年の『アベンジャーズ:ドゥームズデイ』だ。
2025年は本作以外にMCU映画の公開は他に予定されていない。
2026年まではドラマシリーズがいくつかある程度なので、期待値はより一層高まるばかりだ。