2013年公開の『マン・オブ・スティール』から始まった DCEU(DC Extended Universe)は、ザック・スナイダー監督の重厚な映像世界で幕を開けました。
しかし作品の評価や興行成績の面で上手くいかず、ブランドは刷新され、 DCU(DC Universe)として再出発。
そしてその第1弾となる劇場映画が、ガン監督自身がメガホンを取った『スーパーマン』です。
今回のレビューではそんなDCU映画1本目『スーパーマン』のレビューをお届けします!
ジェームズ・ガン版『スーパーマン』
映画が始まり劇場の暗闇に響くテーマ曲とともにスクリーンへ映し出されたのは、従来のDC映画が持つ重厚長大な導入部ではなく、スター・ウォーズのようにテロップで要点のみを畳み掛けるスピード感あふれるものだった。
惑星クリプトン崩壊からカンザス到着、そして現在までをわずか1分程度で示し、「説明の省略こそがこれから語られる物語への最短距離」と言わんばかりのダイジェスト処理。
ここに、ジェームズ・ガン監督の明確な狙いが読み取れる。
まず本作が打ち出した最大の変化は、重いドラマを支える写実的映像から光量と彩度を大胆に高めたコミック的ビジュアルへのシフトである。
コミックベースのカラフルなスーツに身を包み雪原に横たわるスーパーマンの姿は旧来のザック・スナイダー路線との差別化を視覚的に宣言するもので、観客の第一印象を大きく塗り替える効果を上げた。
さらに、劇伴の方向性も注目に値する。
ハンス・ジマーが築いてきた荘厳な音の構造ではなく、ガン作品特有のプレイリストが要所で挿入され、テンポ良い編集と相まって一種の高揚感ドライブを形成。
結果として「DCは暗い」という固定観念を冒頭で解体してみせたのである。
ただし、この俊足オープニングには賛否が伴う。
オリジンを省略したことで初心者が内容を追うための手がかりが希薄になったのも事実。
つまり、知識の前提を観客に委ねるというリスクを承知でギアをトップに入れたのが本作なのである。
総じて、本作はDC作品の前提知識を観客にゆだねて最初から大きく世界を広げた作品だと位置づけられる。
ザック・スナイダー版から世界観を再整備するために「説明より快走」を選び、色彩とユーモアでブランドイメージそのものを更新する。
その大胆さこそが開幕時点で最大の衝撃だった。
等身大ヒーローとしてのクラーク・ケント像
デヴィッド・コレンスウェットが演じるクラーク・ケントは、ブーツに足を通せば空を飛ぶ超人でありながら、顔をしかめ肩を脱臼し、SNSの悪意ある書き込みに傷つく等身大の人間として描かれる。
ザック・スナイダー版が強調した神の孤独と対比して、本作が照射するのは人の弱さである。
まず注目すべきはアクションの質感だ。
ジャスティスリーグで圧倒的火力を示した旧来像と違い、本作のスーパーマンは敵キャラに吹き飛ばされ瓦礫に埋没し、市民の手を借りて立ち上がるシーンが多い。
ヒーローが脆さを露呈することで、観客は「痛みを共有できる対象」としてクラークを認識する。
この弱さはストーリー上の必然でもある。
劇中で強調されるのは「力はあっても評判をコントロールできない」という現代的ジレンマだ。
クリプトン人である事実を揶揄され、匿名アカウントから浴びせられる罵倒や差別発言は、現実のSNS炎上構造と重なる。
ガン監督はここで「パワーよりナラティブが人を殺す」というメッセージを忍ばせる。
一方、ロイス・レイン(レイチェル・ブロスナハン)の存在が、そんなクラークの弱さを肯定的に折り返す人物として機能する。
ロイスは既に正体を知ったうえで交際しており、ヒーローとしての役割で苦悩するクラークを支える。これにより、ラブロマンスが単なる装飾に終わらず、ヒーロー像の等身大化を補完するドラマ的柱となるのだ。
強さのインフレを止めることは、従来ファンにとって賛否が分かれる部分だが、ガン版は「強大な力を持っていても人間的な弱さから逃れられない」という普遍的主題を浮かび上がらせる。
結果、観客は万能感ではなく共感を通じてヒーローを支持する構造に誘導されるのである。
SNS時代におけるメトロポリス
本作が提示したメトロポリスの革新点は、非日常の日常化である。
可愛らしくも恐ろしいモンスターが街を蹂躙しようと、市民は逃げ惑うより先にスマホで撮影。
この世界のYouTubeやTikTokはモンスターやヒーローの映像がエンタメとして並んでいるだろう。
この光景は「災害がコンテンツ化する時代」の縮図そのものだ。
ジェームズ・ガンは先述の弱いスーパーマン像と並行して、「ヒーローが当たり前に存在する社会」の意識変容をコミカルに描き出す。
劇中、ジャスティス・ギャング(ミスター・テリフィック/グリーン・ランタン/ホークガール)が駆けつけると、市民は歓声を上げ動画を撮影。
ここでは怪獣襲来が災害でありつつイベントでもある二重性に置き換えられている。
興味深いのは、このユーモアが単なる笑いに留まらず、メディア・リテラシーへの警句を兼ねている点だ。
スーパーマンやヒーローの行動は常に拡散され、賛否を招くことも多いようだ。
劇中報道では、スーパーマンへの不信をあおる投稿が大きく拡散し民衆に牙をむかせるが、これは決して誇張ではない。
現実世界のSNSでも、事実より物語性のある誤情報が拡散速度を上回るのは周知の事実だからだ。
また、ヒーローを見物扱いする市民の態度は、巨大災害時に「逃げる前に撮影する」現代人の行動と重なり、観客の倫理を鑑賞者自身へ突き返す。
多彩なヒーローのクロスオーバー
ミスター・テリフィック、グリーン・ランタン、ホークガールなど、本作は新DCUのスタートラインでありながら、いきなり複数ヒーローを同居させる構成になっている。
その結果、「説明不足で情報過多」という指摘は確かに免れ得ない。
しかし、MCUが長年かけて築いた「単独→合同」という工程をショートカットした理由は明快だ。
それは「ブランド再起動の速度」を最優先するためであり、同時にエンタメとしての高揚感を観客へ提供するためである。
導入が最小限にとどめられているとはいえ、脚本はキャラクターの輪郭を象徴的仕草で補強する。
ネイサン・フィリオン演じるガイ・ガードナーは大声と軽口を放ち、リングから飛び降りるレスラーのように戦闘へ突入することでその性格を示す。
ミスター・テリフィックはを高度なテクノロジーと仲間思いの一面も見せ一発挟み天才肌を印象付ける。
ホークガールは古代戦士の気質を披露する。
「ディテールではなく要点を象徴へ凝縮する」手法がうまく出されたように見える。
もっとも、コミック知識がない観客が置き去りになる可能性もあり、シリーズ初体験の入門編としては敷居が上がったのも事実。
したがって本アプローチを肯定するかは、観客側の能動性に大きく依存するだろう。
「あとでググる労力も楽しめる層」には歓迎され、「映画一本で完結してほしい層」には冗長に映る。
本作にはジャスティス・ギャングの他にも最後に少し顔を見せたスーパーガールも登場している。
総合的に見ると、クロスオーバー導入の成否は「次作以降に背負う説明責任」を先払いしたか否かに左右される。
もし各キャラが続編やスピンオフで掘り下げられるなら、今回の情報洪水は予告編効果として機能するだろう。
逆に深掘りがないまま尻すぼみになるなら、「詰め込みすぎ」の負債が顕在化するかもしれない。
本作はDCUの長期計画の布石であり、評価は時間差で決まると言えるだろう。
レックス・ルーサー
ニコラス・ホルトが演じるレックス・ルーサーは、物語をねじ曲げる力でスーパーマンに挑む。
ホルト版ルーサーはSNSを駆使して「異星人=外敵」という物語を拡散し、レイジベイティング(怒りを煽る)ニュースを巧妙に混在させる手口を用いる。
ポケット・ユニバースでSNSに書き込む怒れる猿はまさにレイジベイティングを視覚的に表しているようだ。
自らの拳を振るわずとも世論がスーパーマンを追い詰めていく構造は、現実世界でたびたび問題視される「ポピュリズムと拡散」に酷似。
すでに現実でもレイジベイティングによって視聴数を稼ぐ手段は多く見受けられる。
ここで作品は、超人的バトルを映しながらも、真に恐るべきは群衆心理だと告げる。
ホルト版ルーサーの〈情報暴力〉は、監督ジェームズ・ガン自身が体験したSNS炎上→ディズニー解雇という数奇な軌跡と響き合う。
おそらくガンの経験がレックス・ルーサーの行動に転写された形なのかもしれない。
ホルト版ルーサーは新DCUにおける「社会派ヴィラン」の第一号だ。
魔法や宇宙船よりも怖いのは、クリックひとつで世界を歪ませる人間だと言えるだろう。
家族と希望を結ぶ物語的カタルシス
ジェームズ・ガンのフィルモグラフィーを貫くのは「疑似家族を築く物語」だ。
本作でも、クリプトンの実両親とカンザスの養父母という二重の親子構造がラストの感情線を担い、家族こそアイデンティティの核心と位置づける。
冒頭、クラークは亡くなったクリプトンの両親の映像を治療中の癒しとして再生する。
しかし実の両親の真のメッセージが明らかになり、物語の最後で同じ機材に映るのは地球の両親との仲睦まじい映像の数々だ。
この対比が示すのは、「血縁より選択が絆を形づくる」というメッセージであり、ヒーローの原点が家族から受け取った価値観にあることを強く印象付ける。
また、ガン作品特有の音楽演出もここに集約される。
ラストで流れる音楽はスーパーマンの家族愛をより一層際立たせ、劇場全体を包み込む温かさを生む。
シリアス一辺倒だった従来DC映画には稀有なハートフルな余韻は、ブランド刷新の最終確認作業として機能する。
しかし、家族テーマが綺麗ごとに終わらないのも面白い。
劇中では「異文化同士の融和には痛みが伴う」「善意も誤解され得る」という現実も描写され、理想と現実のギャップが常に緊張感を生む。
ここで提示されるのは希望は苦難の先にしかないという、極めてクラシックなヒーロー観である。
結末として、観客は「楽しい余韻」と「社会的課題意識」という二層のメッセージを持ち帰る。
かつてDCが背負っていた重苦しさを払拭しながらも、「単なるライト化では終わらない思想性」を保持したことで、本作は新DCUの方向性を明確にしたといえる。
今後の期待との不安
スーパーマンの力強い再起動を目撃した今、私たち観客の関心は「この世界がどれほど広がるのか」に集約される。
本作にはジャスティス・ギャング(グリーン・ランタン、ミスター・テリフィック、ホークガール)、そして終盤に姿を見せたスーパーガールと、既に複数のヒーローが顔をそろえた。
だがジェームズ・ガンが公言する今後のラインナップを眺めると、MCU的な全員集合イベントの道筋はまだはっきりしない。
そこでこのセクションではDCU第1章「GODS & MONSTERS」に用意された計画を見ていこう。
DCUはすでにいくつかの作品の公開が決定している。
まずは2026年公開予定の映画『Supergirl』(原題)。
主演はドラマ『ハウス・オブ・ザ・ドラゴン』で躍進したミリー・オールコックだ。
既にその姿が本作のラストに登場しているが今から公開が楽しみだ。
続く『Lanterns』(原題)はMaxのドラマとして地球系グリーン・ランタン二人(ハル・ジョーダンとジョン・スチュワート)のバディ捜査ものになる予定だ。
犯罪サスペンスのフォーマットでコズミックヒーローを描くという触れ込みは、従来の大味なSF活劇とは一線を画す硬派路線の香りが漂う。
興味深いのは、本作『スーパーマン』に登場したガイ・ガードナーが現時点でメインキャストに含まれていない点だ。
つまりDCUは序盤からハル・ジョーダン、ジョン・スチュワート、ガイ・ガードナーと、3人の地球出身のグリーン・ランタンを抱えることになるだ。
劇場長編『clay face』(原題)の脚本にはホラー巧者マイク・フラナガンが参加。
『ドクター・スリープ』で示した人間ドラマ×怪異描写のバランス感覚をクレイフェイスにどう落とし込むのか、今から胸が高鳴る。
映画『The Brave and the Bold』(原題)では、バットマンと実子ロビン(ダミアン・ウェイン)が初めて実写バディを組む。
家族を軸に据えるガン路線と相性が良く、シリアス一辺倒だったこれまでのダークナイト像を柔らかくほぐす可能性がある。
本作『スーパーマン』がクリプトンからの脱出からスーパーマンになるまでを省略したことを考えると、バットマンも路地裏での事件からバットマンになるまでが描かれない可能性も考えられる。
テレビ部門も活発だ。
『ピースメイカー』シーズン2はDCEU時代の血統を引き継ぎつつ、新DCUへ半ば強引に合流することになった。(作品内の一部シーン以外がDCUになると言われている)
既に配信されたアニメ『クリーチャー・コマンドーズ』や、製作中と噂される『スターファイア』など、実写・アニメ・ドラマが並走することで、DCUは色調もムードも作品ごとに激しく振れそうだ。
ここで不安なのが「縦横無尽に絡め過ぎると、追い切れなくなる」というMCUがまさに直面した問題だ。
映画だけなら追随できても、ドラマとアニメが接合部を担い始めると敷居は跳ね上がる。
ガンは「各プロジェクトは独立して楽しめる」と強調するが、いわゆる義務視聴が常態化するのは避けたいところだ。
MCUから学べるもう1つのこととしては供給過多だろう。
独立性を保つにはショーランナーごとの作家性が要だが、作品数が増えるほど「期限優先」「予算分散」のリスクも増大する。
特にクオリティ・コントロールはMCUでも指摘されてきた。
そして最後はやはり集合イベントだろう。
MCUが『アベンジャーズ』で熱狂を最大化したような集合計画は、現時点で正式発表がない。
ジャスティス・リーグのような壮大なクロスオーバーを見たい気持ちも確かにある。
だがガンは「今後6年間の基本的な計画はある」と公言しており、長距離マラソンを示唆。
果たして観客の熱が途中で冷めずに持続するか、マーケティングと作品力の二本柱が試される。
とはいっても、これらは今後可能性のある問題で、いまはどの作品も公開を楽しみにしている。
結局のところ期待と不安は表裏一体だ。
雑多なメディアミックスは追い切れない迷路にも色彩豊かな遊園地にも化ける。
本作『スーパーマン』が示したのは、シリアスなトーンに囚われていたDCを一気に抜け出し、これまでのDCとの差別化を鮮明に打ち出す方向転換だった。
その延長線上でスーパーガールが疾走し、ホラー調クレイフェイスが不気味な影を伸ばし、ランタンズが地球を俯瞰し、バットマン親子が路地裏で衝突する。
もしそんなパッチワークが成立すれば、MCUと真っ向から差別化された多彩で奔放なユニバースが立ち上がるかもしれない。
要は「全部同じ味にしない」「でもバラバラにもしない」というところをどこで折り合うかだ。
まだDCUは始まったばかりだ。
スーパーガールやバットマン、グリーン・ランタンなど、このDCユニバースを真に拡張(Extended)してくれる作品群の公開がこれから楽しみだ。