要約
MCU に新たな風を吹き込む『サンダーボルツ*』は、暗いバックボーンを抱えたヒーローが集い模索する物語です。
本レビューでは、ストリートレベルの肉弾戦が光る本作を〈テーマ・演出・MCU 連携・個人的視点〉の4軸から深掘りします。
闇を抱えたヒーローたちの力
『サンダーボルツ*』は、ヒーローと呼ぶにはあまりにも深い傷を抱えたメンバーたちが肩を寄せ合う物語です。
ウィンター・ソルジャー、エレーナ・ベロワ、ジョン・ウォーカー、ゴースト、そしてタスクマスター。
いずれも国家や組織の思惑に翻弄され、痕跡だけを心に刻んで生き延びてきた面々ばかりでした。
本作では、そんな彼らが“セントリー(ヴォイド)”ことボブを救うために奮闘します。
私がもっとも“支え合い”を実感したのは、クライマックスで<ヴォイド>が具現化する場面です。
ヴォイドは影のように人々を飲み込み、彼らを“後悔とトラウマの牢”に閉じ込めます。
過去と向き合わざるを得ない内的世界に投げ込まれたボブは、暴力的な父親がいる家庭の屋根裏にひっそりと身を潜めます。
そこへ飛び込むのがエレーナです。
彼女もまた、レッドルームで友人を殺めた初任務の記憶に縛られています。
影に飲まれながらもボブへ手を差し伸べ、「あなたはひとりではない」と語りかける姿は、彼女自身が得たかった救済を他者に授ける行為でもありました。
やがてジョン・ウォーカーやタスクマスターらサンダーボルツ* メンバーが次々と影の中へ身を投じ、孤立無援だったボブの周囲を取り囲みます。
その構図は、傷を負った者同士でしか編めない“安全網”を視覚化してくれました。
なかでも胸を打たれたのは、レッドガーディアンとエレーナの静かな対話です。
かつてエレーナがサッカーチームで「皆がミスしたときに自分が支えになりたい」とキーパーを志願した思い出を、レッドガーディアンは覚えていました。
ダメな父親なりに娘を見守り続けていた事実が、エレーナの自己否定をやわらげます。
ここでは“家族”という古典的モチーフが、血のつながりを超えて再生する様子が丁寧に描かれていました。
こうしたエピソードの積み重ねは、「孤独を抱えるすべての人へのメッセージ」として非常に普遍的です。
実際、観客の多くは「自分にも支えてくれる人がいるはず」と勇気づけられるでしょう。
かくいう私はフリーランスという孤立気味の働き方を選び、人と会う機会が年に指折り数えるほどしかありません。
そのため、“誰かがそばにいる”という前提が即座には共鳴しづらく、テーマの核心を掴みかねる自分がいました。
それでも、自分が“特別ではない”という無力感に苛まれるボブには深く共感します。
特別になりたい。しかし方法も道筋も見えない。そんな焦燥を彼は超人の力に、私は創作やプログラミングに託しているのだと思うと、彼らの支え合いがほんの少し眩しく映りました。
同僚という存在を時々知りたくなる時もあります。
結局のところ、本作が提示した“支え合い”は万能の処方箋ではありません。
それでも、闇を抱えた者が闇を抱えた者を救うという循環は、MCUが長年積み上げてきたキャラクター史があってこそ説得力を帯びます。
特定の才能や光り輝くヒロイズムではなく、傷そのものが絆になる。
その示唆は、派手さを抑えた地上戦アクションと相まって、私にとっては久しぶりに“地に足のついたヒーロー像”を感じさせてくれるものでした。
『特別になりたい』欲求の光と影
“特別な存在になりたい”。
それは多くの人が胸の奥でひそかに抱える渇望です。
『サンダーボルツ*』におけるボブ(セントリー)は、その欲求をこれ以上ないほど純度の高い形で体現していました。
もしかするとヒーローになれる。そう思った瞬間、平凡だった日常が一変しました。
物語序盤、ボブはジョン・ウォーカーとエレーナを逃がすため、自ら囮になる決断を下します。
それは仲間を守りたいという善意と、「この行動を通じて自分の価値を証明できる」という願望が絡み合った複雑な選択でした。
危険を顧みず行動できる勇気と、自己顕示欲のふたつが同居してこそ“特別願望”は人間らしく息づきます。
闇の側面に映る欲望の裏返し
セントリーの力は光と影を表裏一体で宿します。
闇の側面<ヴォイド>が人々を影の世界へ閉じ込め、後悔やトラウマを映し出す能力は、ヴォイド固有の性質であり、必ずしもボブの私怨による“報復”ではありません。
ただし、ボブが抱いてきた〈何者にもなれなかった過去〉が結果的にヴォイドを呼び覚ましやすくしている点は否定できないでしょう。
力を捨てること=再び凡庸な自分に戻る恐怖というジレンマが、ボブを影と光の狭間に立たせていました。
“特別への渇望”
このテーマは私の生き方とも強く重なります。
フリーランスとしてブログ運営やアプリ開発に挑みながら、「まだ何者にもなれていない」という焦燥を抱える日々。
成果が出なければ自分の価値すら揺らぐのではと怯える感覚は、ボブがセントリーという肩書にすがりつきそうになる心理と響き合います。
彼が力を“保ちたい”と願うのは、単なるパワーへの執着ではなく、ようやく手に入れた自己肯定感を失いたくないからだ、と私は受け取りました。
仲間の存在が欲求を書き換える
クライマックスでヴォイドに飲み込まれたボブを救ったのは、仲間たちの温かい呼びかけでした。
エレーナは影の世界で「あなたはひとりではない」と語り続け、バッキーやジョン・ウォーカーも手を差し伸べます。
ここで重要なのは、仲間たちがボブの“特別になりたい”欲求自体を否定しなかった点です。
孤独を埋め、虚無に飲み込まれないためにこそ人は支え合う。
彼らは力の方向を「誰かより上に立つ」から「誰かと共に立つ」へと柔らかく書き換えました。
『サンダーボルツ*』の核心は、「特別になりたい・変わりたい」という人間的な願望と、そこに彼らの背景にある影との向き合い方にあります。
光を追えば影が伸びる。
しかし影を抱きしめられる仲間がいれば、光は消えません。
ボブが初めて“自分を理解してくれる他者”の存在を実感した瞬間、欲求は破壊衝動から連帯への渇望へと変質していきます。
地に足のついたアクション演出と映像美
サンダーボルツ*の戦いは空や宇宙を駆ける壮大なスーパーパワー合戦ではなく、あくまで“地に足のついた”ストリートレベルの肉弾戦が中心でした。
メンバーの多くは 魔術も超人的なスーパーパワーも持たず、せいぜいが肉体強化や特殊装備止まりです。
殴る・蹴る・跳ぶ・抑え込む。
人間離れしかけた身体能力を極限まで研ぎ澄ました格闘の手触りこそ、本作の大きな見どころでした。
せめぎ合いで際立つ個性
サンダーボルツ*の組織〈OXE〉が証拠を焼却しようとした施設では、ジョン・ウォーカー、エレーナ、ゴーストが三者三様のスタイルで激突します。
ウォーカーは初代キャプテン・アメリカを思わせる重厚な盾打撃とパワフルな投げ技で強行突破。
エレーナはスパイらしい軽やかな身のこなしとナイフワークで応戦し、ゴーストは壁抜けを駆使して死角から奇襲を仕掛ける。協力ではなく“せめぎ合い”が描かれることで、各キャラクターの個性がより鮮明になっていました。
各キャラクターも“人間ベース+α”の能力のため、少し変わった、だけどリアリティのあるアクションが光ります。
カメラワークもショットの切り替えを最小限に抑え、滑らかなパンや追従で動線を追うため、アクションがごちゃつかず非常に見やすかった点も印象的です。
身を挺して守るヒロイズム
最終盤、闇人格ヴォイドが街を蹂躙する中、サンダーボルツ*のメンバーはヴォイドの桁外れのスケールに対して真正面から殴り合う手段を持ちません。
それでもレッドガーディアンが瓦礫の下敷きになりそうな少女を全身で守り、ウィンター・ソルジャーもジョン・ウォーカーも同じように身体を盾にして市民を救出します。
大きな瓦礫は全員が力を合わせて全力で支える。
派手な光線ではなく、「目の前の命を守る」という真摯な行動が画面全体を貫き、ストリートレベルのヒロイズムを際立たせていました。
グレイッシュな色調と抑制されたVFX
本作のカラーパレットはグレーとダークブルーが基調で、明るい派手な色は意図的に抑えられていました。
スパイサスペンスを思わせる落ち着いた画面設計が、メンバー全員の闇や虚無感を際立たせました。
VFX も必要最小限で、ヴォイドの影演出は黒煙と逆光を組み合わせた控えめな手法です。
派手な光線よりも重く響く拳。
その演出方針が、アクションのリアリティをいっそう高めていました。
MCU 拡大路線への逆張り
『エンドゲーム』以降の MCU が宇宙規模・マルチバース規模へと拡大する中、本作はあえて縮尺を人間サイズに戻したことで強い印象を残しました。
ストリートヒーロー路線のディズニープラス作品『デアデビル:ボーン・アゲイン』で培われた“近接戦闘のカタルシス”を、シネマティックなスケールへ昇華した形と言えるでしょう。
ニューアベンジャーズとあのメンバーの出会い
あの船が残した謎
ポストクレジットに姿を見せた ファンタスティック4 の船。
ほんの数秒の登場にもかかわらず、本編を見終えた私の興奮は困惑と共に訪れました。
最大のポイントは「なぜ〈Earth-616〉に船だけが到達したのか」という謎です。
予告編の描写から推測すると、ファンタスティック4本編は彼ら独自のユニバースで物語が始まるはずです。
それでも船だけがこちらの世界に突如姿を現したという事実はいくつかの展開を予想させます。たとえば、ギャラクタスによる襲撃からの脱出という定番パターンは確かに頭をよぎります。
しかし、それではポストクレジットの意味が“ネタバレの先取り”に近くなり、意外性に欠けるとも思いました。
むしろ「船にはファンタスティック4以外の誰かが乗っていた」あるいは「船そのものが転移のトリガーで、到着と同時に別の現象を引き起こす」といったひと捻りがあるほうが MCU らしい伏線の張り方です。
ポストクレジットでエレーナたちが謎の船を見つめるシーンは、エンドゲームへのつながりでニック・フューリーのポケベルを見つめるスティーブたちを連想させました。
ニューアベンジャーズ誕生と商業色の変化
劇中終盤、ヴァレンティーナは巧妙な罠でサンダーボルツ*を報道陣の前へ誘導し、「ニュー・アベンジャーズ」の名を高らかに宣言しました。
私自身、ここは素直に驚きました。
『エンドゲーム』以降の MCU では、アイアンマンの死やキャプテン・アメリカの引退により “元祖アベンジャーズ” が空中分解状態に陥っていたからです。
空席のままだった“地球最強チーム”の座を、ヴァレンティーナが横取りするかのように埋めた構図は、ダークヒーロー集団だった サンダーボルツ*を一気に表舞台へ押し上げました。
しかもポストクレジットでは“14 か月後”と表示され、彼らが既に一年以上ヒーロービジネスを続けてきたと示唆されます。
シリアルの箱や PR ポスターに顔が刷られるという徹底したマーケティング戦略は、スターク・インダストリーズが装備提供などで支援していた旧アベンジャーズとは異なる商業色を放ち、ヴァレンティーナの政治経済センスを感じさせました。
トニー・スタークがスパイダーマン用に〈アイアン・スパイダー〉スーツを製造し、公に“新アベンジャーズ”として紹介しようとした流れと対比すると、企業支援の在り方がまったく別ベクトルに進んでいる点が興味深いです。
ヒーローが世界に危機を救うという壮大な物語ももちろん大好きですが、ニュー・アベンジャーズの行っている「大手メディアへの積極的な露出」という現実にありそうなマーケティング手法なんかもとてもワクワクさせてくれます。
サンダーボルツ*の立ち位置
2026年公開予定の『アベンジャーズ : ドゥームズデイ』や『アベンジャーズ : シークレット・ウォーズ』が迫る中、ニューアベンジャーズはもはや新しいアベンジャーズとしての地位を確立しそうです。
一方で、2代目キャプテン・アメリカ(サム・ウィルソン)が率いる“正統アベンジャーズ” が再始動すれば、チーム同士の衝突は避けられないでしょう。
サンダーボルツ側は政府やメディアに支援された“トップダウン型ヒーロー組織”、正統アベンジャーズは現場重視の“グラスルーツ型ヒーロー組織”という対比になりそうです。
両陣営が『シークレット・ウォーズ』前後で合流するのか、それとも政治的確執を抱えたままマルチバース級の危機へ突入するのか。
今後のMCUを左右する見どころと言えるかもしれません。
気になる伏線とキャラクター
やはり今回初登場で強烈なインパクトを残したボブは今後が気になります。
既に2026年公開予定の『アベンジャーズ : ドゥームズデイ』への参戦が公式に発表されましたが、力を制限したままニューアベンジャーズに所属している現状が不安でもあり期待でもあります。
そしてあの金髪オールバック+金スーツが “ネタ衣装” に終わるのか、今後は『エターナルズ』のコスチュームのように彩度を落としてリアリスティック路線に調整される可能性もあるかもしれません。
スーツ再設計とともに、ボブがセントリーとして完全復帰できるのか注目したいです。
本作では議員として少し苦戦中にも見えるバッキーの今後も注目です。
ポストクレジットでは、彼が議員職を維持したままニューアベンジャーズに加わっているのか、それともヒーロー専任へ転じたのか判然としません。
もし両立しているなら、政治と現場活動をどう折り合い、法的・倫理的ジレンマに向き合うのかが今後の焦点です。
逆に議員を辞している場合は「何が彼を決断に導いたのか」というドラマが掘り下げられることを期待します。
トニーやスティーブなき今、アベンジャーズは管理されるチームになりつつあることを考えても、シビル・ウォーを思わせるようなテーマにもつなげることが出来るかもしれません。
そしてヴァレンティーナの遠大な計画も気になるところです。
彼女が “ヒーローブランド” を手に入れた今、次なる野望はどこに向かうのか。
財政基盤・軍事ネットワーク・メディア支配。
いずれも手札に見え、黒幕ポジションとして存在感が増していくのでしょうか。
孤独な観客としての私の感想と評価
刺さった瞬間:温度のある親子のようなやり取り
『サンダーボルツ*』を観終えて私の胸に最も強く残ったのは、レッドガーディアンとエレーナの父娘的な関係でした。
任務中の何気ない会話に見せかけて、レッドガーディアンがエレーナの過去を覚えている描写にはグッときました。
彼女が子どもの頃に語っていた “みんなのミスを受け止めるキーパーになりたい” というエピソードは、暗い過去を背負いながらも「誰かを支えたい」という思いをずっと抱き続けていたことの証です。
そしてその想いを否定せず、覚えていてくれた父のような存在であるレッドガーディアン。
彼の不器用ながらまっすぐな言葉が、エレーナだけでなく、観ている私の心にも残りました。
彼らの関係性はヒーロー同士というよりも、もっと人間的で、もっとささやかなつながりでした。
MCU の中にこういう温度のシーンがあるのは、とても良いアクセントだったと思います。
刺さらなかった理由:仲間前提のメッセージとの距離
反対に本作のメインテーマである「あなたはひとりじゃない」「仲間と支え合えば闇を越えられる」というメッセージは、正直なところ私にはあまり刺さりませんでした。
これは作品の問題というよりも、私の生活スタイルの特殊性に起因していると思います。
私は大学卒業後、新卒で企業に就職することなく、フリーランスとして一人で生きてきました。
ブログを書き、アプリやゲームを作り、動画編集を続けてきました。
年間を通して他人と直接会う機会は両手で数えるほどしかありません。
だからこそ「仲間がいる」「周囲に理解者がいる」という前提に立った本作のメッセージは、実感として受け止めるのが難しいのです。
おそらく多くの人にとっては日常的で、あたりまえに心を打つテーマだと思います。
けれど、私にとっては“触れられない温もり”のような距離感があり、どこか“他人の物語”に感じてしまいました。
作品の完成度は高いと感じながらも、私の“今の生き方”とはすれ違ってしまった。
その感覚が、この作品を語るうえでの率直な印象でした。
意欲の再点火
それでも、作品鑑賞後に湧き上がる自信ややる気という意欲は湧いてきました。
これは本作に限らず、MCU作品や良質な映画を観た後によくある反応ですが、やはり大切な感情です。
ただ、本作が語るように「一人で抱えずに、仲間に頼ることも大事だ」というメッセージに関しては、私の現実とやや乖離しており、少しだけ切なさを感じました。
現実には、頼れる仲間がすぐそばにいるとは限らない。
それでも孤独を抱えながらも前に進もうとするボブの姿に、自分自身を重ねる部分もありました。
だからこそ、この作品が持つ“救いの物語”の一端を、少し遠くから見守るような気持ちで受け取ったのです。
あのキャラクターの衝撃展開
まさかの展開 : あなたはどう思った?
本作最大のサプライズ(?)の一つは、タスクマスターが物語序盤であっけなく退場したことでした。
ゴーストに額を撃ち抜かれ、そのままフェードアウト。
『ブラック・ウィドウ』でメインヴィランを張ったキャラクターとは思えない扱いに、私も劇場で思わず息を呑みました。
私はXのようなSNSを利用していないのでYouTubeで見つけたコメントになりますが、 MCU 系 YouTuber のレビューを覗くと、「扱いが雑すぎる」「あんなに改変したのにさらに即退場とは…」という困惑が相次いでおり、賛否真っ二つといった印象です。
公開前から漂っていた“不穏な空気”
実は公開前から、早期退場を示唆するサインはいくつかありました。
・キャスト一覧からの不在『アベンジャーズ : ドゥームズ・デイ』のキャスト発表に、オルガ・キュリレンコ(MCU版タスクマスター役)の名前が見当たらなかった。
・公式ポスターの扱いサンダーボルツの集合ポスターで、主要キャラが堂々と顔出しする中、タスクマスターだけはフルフ ェイスのマスクで隅に小さく配置。
まるで“契約上とりあえず写しました”感が漂っていました。
私の印象
私は子どもの頃、DlifeというBSの局で放送されていたアニメ『アルティメット・スパイダーマン』で初めて彼を見たとき、模倣能力を駆使する傭兵の姿が印象に残りました。
以降、このスタイルが私の中のタスクマスター像として強烈に刻まれます。
しかし MCU 版タスクマスターは『ブラック・ウィドウ』で大幅な再解釈を受け、性別やバックストーリーだけでなくキャラクター性も一変。
私自身、普段は MCU の改変を受け入れるタイプですが、タスクマスターだけはアニメ版の刷り込みが強く、どうしても違和感を拭えませんでした。
だからこそ、今回“秒殺”という極端な幕引きに対しては「驚き半分、安堵半分」という複雑な感情を抱いたのが本音です。
まとめ
孤独と支え合いの二重奏が残した余韻
『サンダーボルツ*』は、誰かを救うことがテーマの作品ではあるけれど、決して派手なヒーロー映画ではありませんでした。
むしろ、救うことで自分自身の傷に向き合うような、そんな内向きで優しい物語だったと思います。
特に本作の中で描かれた「支え合い」というテーマは、多くの人にとってはきっと身近で、温かく、素直に胸に届くものだったのではないでしょうか。
仲間と向き合い、他人を通じて自分を知る。
そんなプロセスの中で、それぞれが再び前を向いていく姿には、ヒーローというよりも“人間”としてのリアルがありました。
ただ、私自身にとっては、そこに少し距離を感じたのもまた事実です。
誰かと何かを一緒にやるという経験がほとんどない日々を送ってきた私にとって、「ひとりじゃないよ」「仲間がいるよ」という言葉は、どこか雲の上のもののように感じてしまった。
頭では理解できるけれど、心がその温もりを掴み損ねてしまう、そんな感覚がずっとありました。
それでも、特別になりたかったボブの姿には、確かな共感がありました。
何者でもない現実に、ただ耐えているだけの日々。
その中で「何かになれるかもしれない」という光に手を伸ばしてしまう気持ちは、きっと誰にでもある。
私自身もそうやって、ブログを書いたり、いろいろ挑戦してきたからこそ、彼の焦燥や願いは、すぐ隣で聞こえる声のように感じられました。
きっとこの映画は、「支えてくれる誰かがいる」という視点で見ると、もっとずっと温かくて心強い作品になります。
でも仮にそれが今いないとしても、この映画が語ってくれた“孤独と希望”は、どこかで私の背中を押してくれていた気がします。
誰かと一緒でなくても、自分を信じて、もう少しだけ前に進んでみようと思える。
そんな勇気をくれた作品でした。